学校法人 星野学園中学校

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講演会感想(抜粋)

自分が助けてあげる側の立場だったらどうしてわざわざ知らない人を助けなくてはならないのか、メリットが無い、もし相手に何かあった時自分のせいにされるかもしれない、と思います。でももし自分が助けを求める側だったら、助けて欲しいし、助けてくれなかったらどうして助けてくれないんだ!酷い人!と思ってしまうと思います。なので、お互いに無理のない範囲で助け合いたいなと思いました。

普段の道徳では、絶対に人を助けなければならないという考えが正しいと思うことが普通だと思っていましたが、いざ自分の立場や相手の立場になって考えてみると、やっぱり自分の都合のいい方に考えがいってしまうことを実感しました。その上で、両方にメリットのある方法を考えていかなければならないと思いました。

生活に余裕があったり、そういう活動をしていたり、助けたい人は助けるべきだと思います。私だったら、助けると思います。なぜなら、知らなかったり会ったことがなくてもその人が助けて欲しいと思っていると思うからです。牛肉問題みたいに答えがはっきり出ないのを考えるのは想像以上に面白く難しかったです。

今までもSDGsに触れる機会はありましたが、今回の講演会を通して、さらに理解が深まりました。今まで私は、貧困の人たちはお金がなくて食料がないのだと思っていました。ですが、牛の餌の話を聞いて、自分たちでも出来ることがあることが分かりました。出来ることがあると言っても些細なことですが、少しでも貧困の人たちを救えるようにしたいと思いました。また、ピーター・シンガーさんの言葉を聴いて、貧困の人たちを助けるという行為は、友達に勉強を教えるのとほぼ同じなのではないかと思いました。友達から勉強教えてと言われた時に、解き方がわかるのに拒否する人はいないと思います。貧困の人たちを助けるのも同じで、解決方法を知っているなら、迷わず手を差し伸べることが大切だと思いました。

普段に潜んでいる疑問を多方面から見るととても面白いのを実感しました。考える、ということの大事さやたのしさを改めて感じました。ありがとうございました。

自分は日本に生まれて、恵まれた生活を送れているのだということがよく分かりました。また、世界に貧困の人が7億人もいると聞いて驚きました。今回の牛肉の例のように大きく自分たちの生活を変えてまで貧困の人を救おうとするのは難しいけど、自分が貧困の状況におかれたら助けて欲しいという人が多かったので今後自分にできることがあればやりたいと思います。

私は会ったことのない知らない人を助ける義務はないけど助ける権利はあると想いもました。牛肉の話で私が考えたことは、牛肉を食べないことで貧困の人たちが助かるのなら協力するけどそのせいで牛を育てる人、加工する人、牛肉を取り扱っているお店の人たちが貧困になったら元も子もないので条件によって変わると思いました。物事を多方面から見ることで色々なことがわかったりするので話を聞いているのは面白かったです。

会ったことのない人だと、その人の性格がわからないし、感性は人それぞれなので「こんな風に助けてほしい」、「こんな助け方はやめてほしい」というのがあると思うので私が助けてもその人が満足感を得られるかはまた別だと思うので助けるべきではないと思います。

自分は遠くで知らない人のために何かするは良いことだと思いますが自分の利益に害が出るのであればやはりちょっと嫌だな〜と思う。なんと言っても相手の顔も性格も分からないし別に知り合いなわけでもないから自分の利益に害が出るまで助けようと自分は思えない。

哲学はあまりよくわからないけれど,もし私が知らないところで知らない人が困っているのならば、わたしは助けます。確かにメリットもないし、お金も時間もかかるかもしれません。けれどそれでも少しでも貧困ではなくなる人がいるのなら私は助けたいと思います。

助けるべきかと言われたら戸惑いますが,助けたいですか?と聞かれたらもちろん助けたいと答えます。そんな人になれるように今日学んだことを活かしていこうと思います。

ディスカッションでの問い1、「会ったことがない遠くの知らない人を助けなければならないか」についての意見です。私は、ディスカッションをしていた皆さんのように、「義務」ほどではないと思います。しかし、助けようと思う人を助ける「権利」はあると思いました。そして、遠くの知らない人を助ける必要はあると思いますが、まずは身近にいる人が困っていないかを確かめて、困っているようならその人たちから助けるべきだと思います。まず身近な人から助けることによって、より助け合いの輪が広がるのではないか、と思いました。ですが、困っているかを確かめるのにも一苦労です。もしかしたらすぐ隣にいた友達が困っているのかもしれない、と考えると、人間は結構ポーカーフェイス(というかすぐに身内のことを話してしまっては危険)だと思うし、自分たちで解決するべきことだってあると思います。だからこそ、助けるタイミングが難しいし、困っている人が何をして欲しいのかを理解するのは難しいです。しかし、助けるタイミング以外のことは、困っている人と話し合えばわかると思います。が、これが難しくなってくるのが、今回の問いである、「会ったことない遠くの知らない人」です。実際に困っている人々の話を聞くのは相当レベルが高いと思います(国境を越えるかもしれないし、自分1人では難しい)。だから、「もし〜なら」を繊細に考えていく必要があるのだと思います。西山先生がおっしゃっていたように、貧困にはたくさんの種類があるので、貧困の定義をどうするかさえも考える必要がある、このことを踏まえて「もし〜なら」を考えると、「会ったことない遠くの知らない人」の気持ちも推測することができるかもしれない、と思います。そして、細分化して考えた「もし〜なら」に沿って解決策を何個も見出していけば、「会ったことない遠くの知らない人」を助ける筋道はできるのではないか、と考えました。しかし、この細分化した「もし〜なら」の解決策には、優先順位があると思います。でも、この優先順位でさえも、時と場合によって変わると思うので、難しいな、と思いました。結論からすると、私たちはどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきではあるが、行動に移すのは難しいと思いました。mustではなく、shouldやas much as possibleだと思います。そして、まずは「知る」ことが大切だと再認識しました。

僕はまず日本に生まれ、わりと普通の家庭にうまえることができたため、特に人生に苦労したことがありませんでした。しかし、いざこのような問いをかけられると、最初は自分の価値観で考えるが、違う視点から見ると自分の考え方が変わることがあるのだと思いました。このようなことを踏まえて、他の人と口論になった時、相手のことも尊重して、話し合おうと思いました。

私は政治哲学を考える時、誰が何のために何をするのかをしっかりと条件付けすることが大事だと思いました。どのようなリスクとリターンがあるのか、道徳的なことと同時に損得も考えるべきだとも感じました。今回の議論で、議論で浮き彫りになった問題点をどう補うかを考え、実行することが地球規模の問題解決につながると思いました。

私も前に出て話していた人たちと同じで、助ける義務まではいかないけれど、助けたほうがいいと思います。自分の立場で考えると、自分が遠くの人を助けたとしてもメリットがないからあまり助ける気にはならないけれど、もし自分が貧困に悩んでいる立場だったら、お金などをその人の贅沢ではなくて自分が普通になるために使って欲しいなと思います。

きっとどんなに貧困の人が近くにいても、その人を助けるかどうかは義務では無く権利だと思い、助けなかったから何か言われるような事ではないと思うし、助けられる側も助けられる側の責任というものがあると思う。せっかく誰かが何かを我慢してくれて幸せを獲得できたとしても、その人が何もし無くて、その幸せに頼ったまんまだと助けた側も望んでいることでは無いと思うし、せっかくの幸せを無駄にする事だと思うから、助けられた側にも助けられた責任があると思う。また、牛肉の話では、最近牛肉の価格が上がってきていたりしていて、きっと牛を育てている人も生活が苦しい場合だってあると思う。そこで牛肉を買わないとなると、牛を育てている人だけでは無く穀物を育てている農家まで生活が苦しくなってしまう可能性だってある。ただがむしゃらに貧困を救いたいと思って行動したとしてもその行動が裏目に出てしまうかもしれない。助ける事はとても良いことだと思うし、凄いことだと思う。しかし、その先にあるもの。そして、どんな人に影響を与えるのか考えて行動することが大切だと思った。

私は人としてみるか、人間という一つの種族として見るかで答えが変わると思います。人とゆう知的生命体は感情を持ち、自分や肉親ではない誰かにかわいそうだと思って助けたり、また助けてもらったからとお返しをすることもあります。人間は、この地球上に存在するいろいろな生き物のうちの一つとして、自分第一に行動します。私は、せっかく人という種族に生まれることが出来たので知的生命体として生きてみたいです。

助けるべきだとは思うけれど実際できるかと言われると、難しいなと感じた。そもそもどういう人を最初に助けるのかという優先順位をつけるのが一番難しいと思う。貧困の人を助けると言ってもどの国の人か、その中でも誰を助けるのか決めるのは大変だと感じる。

今日の講演会ではとても聞きやすい説明でスライドもわかりやすくてとても良かったです。私はやはり人間という生き物は自分を1番大切に思いながら生きているなと思いました。なぜなら、自分が裕福であれば困っている人を助けなくてもいいと考えますが、自分が困っていたら自分が1番だと思い、裕福な人に助けてほしいと思うからです。これが人間の本性で、倫理観を大切に思っています。それを治すことは難しいけれど、直さなくても自分だけではなく身近の困っている人も助けようと思えばみんなが幸せになれるなと思いました。なので、遠くの人を助けようと思わなくても、身近な人だけでも助けようと思えれば成長できるのかなと思います。

政治哲学というものを知って話し合うと、とても面白いな,と思いました。自分が貧困者になった時の考えと相手が貧困者になった時を比較すると,人間はやはり自分のことしか考えていないのだなと思いました。義務ではないとはいえ、自分が助かることを第一とした意見が多い印象だったので、貧困を根本的に無くすというのは難しいことなのかなと思います。自分が助かれば相手は損をするのであれば、私は無理に助けてもらいたいとは思わないです。政治哲学はトレードオフの関係性を持っていると思いました。

「私たちはどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきなのか?」という質問に対して、僕は助けなくても良く、助けなかったからといってその人が悪いということにはならないと思いました。こう考えた何はいくつかの理由があります。一つ目は、近くにある人は他人の仲介などを得ずに自力で直接助けることができるが、遠くの人を助けるというと実際に自分の手で助けたという実感が得られないうえに、どのように助かったのか分からないため、助けた実感が湧かないと思ったからです。二つ目は、例えば遠くの人が貧困で困っていた場合、できれば助けた方がいいと思いますが、助ける側の人たちも決して裕福ではなく、貧困で困っている人たちよりマシというだけで支援する余裕がないことが多いです。もし下手に助けたら自分も財産を無くしてしまった上に、中途半端に支援を終わらせてしまい、支援先を余計に混乱に陥れるとも考えたからです。三つ目は二つ目と似た内容ですが、他の国より裕福という理由だけでその国を助けなければいけないという考えに疑問を持ったからです。裕福な国が貧しい国を支援し続けていれば貧しい国は発展するかもしれませんが、裕福な国は支援疲れして、経済の発展を阻害してしまうと思ったからです。これらの理由によって、僕は助けなくてもいいと考えました。

実際会ったことのない人の事となると実感が湧きませんが、まずは実際の状況を知り、助けるべきだと思います。また、身近な人を助けるべきだとは思います。それはその人のことをよく理解し、実際の状況を知っているからだと感じます。知っている人を助けることと知らない人を助けることのギャップを埋める、という観点がこの問題において重要だと教わり、重要だと感じた。

代表で前に出ていた人は大体の人はどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきかは義務ではないと思うと言っていたけれど、私は人によって義務があるかどうか変わると思います。もちろん自分から助けたいと思っている人は助けていいと思います。しかし、代表で出ていた人たちと違うのはその他の人です。私は全員に義務がないとは思いません。理由としては、自分が努力して実力で稼いだお金は自分の好きなように使っていいと思います。けれど、自分が働いたりしないでお金をもらっている人や、悪用しているお金はどこか遠くの会ったことのない人たちでも助ける義務があると思います。

人の助け方について、今回の講習では牛肉を食べないことにより、その分の穀物を提供するとおっしゃっていましたが、それだと一時的なものでしかないという意見もありました。そこで僕は、助け方に工夫が必要だと思いました。それは、作物の作り方を教えて、環境を整えることです。そうすれば、その土地に住む人々自身が自分たちの力で継続的に食糧を得られます。ただ、教える側にも何かのメリットが必要だと思ったので、植民地支配ではないですが、教える側が教えた国を治める条約などを結べばいいと思いました。(日本が南アフリカに米などの作り方、環境を整えて、南アフリカ人を日本人として扱い、南アフリカで採れた特産品は日本のものとして輸出する)

私達は今ウクライナ進行やイスラエルとハマスの戦争などをテレビ上でみて、残酷に思ったり、悲しく思います。ニュースでそれらを報道している理由は国が関わる重要な大事だからという理由もありますが国民の人々に戦争の辛さや残酷さ、またその国の現状を伝えるためでもあると思います。それをみて人々が悲しむからデモがおきたり、国に支援を行う事を訴える人が出てくるのです。このように人間には遠くの国の人々を心配し、不安に思う人がいてデモなどの行動に起こして訴える人も出てくるのです。ところが、身内の人が亡くなった場合と遠い国の人がなくなった場合ではどちらの方が悲しいですか?と聞かれたらやはり身内の人の人のほうが当たり前ですが悲しいはずです。それは全く知らない他人はどんな人なのかわからないし規模が大きすぎるから何に焦点を当てて悲しみを持てばよいかわからないという理由もあると思います。これをふまえて講演会での牛肉の例で考えてみると、貧困に困っている人なんかたくさんいるし、どこまでが自分たちが支援して解決する範囲なのかがわかりづらいけれど、今自分の近くにいる人が貧困に困っていたら自分の成果が見えやすいこれは人々がちゃんと支援が届くのか?やそれによって自分たちにどんな利益があるのか?これは自分たちを知らずとも中心として考えていて、私も実際貧困に困っている人々お立場になって考えても本当のところはわからないです。こういう不安や自己中心は国どうしの情報がまだ一般の人々に上手く行き届いていないから、生まれる感情や疑問だと私は思いました。 そしてこれを解決するためには国どうしの交流などで遠い国の人ではなく遠い知人たちくらい相手を知ることによって人間の感情はかなり変わるのではないのかなと思いました。

私は、反対の立場から考えることの大切さが分かりました。もし自分が〜だったら、と考えると今の自分の立場で考えることと全く違ったりすることもあるので、さまざまな視点から物事を考えられるようになりたいと思いました。また、人は考え方がそれぞれ違うので、一概に何かを義務化してしまうのも良くないと感じました。貧困問題では、自分からは遠いことに思えて実感が湧きにくいので、まずは知ることをしようと思うことが大切だと思いました。

私は、助けるべきだとは思います。しかし、人の思考回路は自身の損得によって左右されるため、場所が遠い場合は感謝も届かない場合があります。さらに、相手の情報、人数などが具体的にはわからず、現地に行ったことのない人にとってはイメージがしづらいと思います。また、日本は島国なので、他の国の状況を知るためには、ニュースや新聞などのメディアを使うか、飛行機で旅行をしなければなりません。だから、身近なことだと捉えることは難しいです。もし、身近な家族や友達が困っていて、遠くの国あったこともない人も困っていたら、どちらも同じ価値の命であることはわかっていても、家族や友達の方が自分の中での助けるべきだという優先度が高くなってしまいます。だからこそ、まず、自分の身近な人たちにそれぞれが気を配り、支え合い、その輪を広げていくことが遠回りでありながらも現実的に一般人がやりやすい行動と心がけなのだと思います。

この問いについて僕が考えたことは、結論としては身近で誰かが困っていたら助けるけど会ったこともない遠くの誰かは助けない。理由としては、まず自分にとっての物理的な距離が違う。物理的な距離が近いと近くの人が困っていたらなぜ困っているのかやどのくらい困っているかを自分で見て判断することができる。しかし物理的な距離が遠いと自分で見て判断することができなく自分がした事に対して相手がどのくらい助かっているのかがわからない。次に遠くの会った事もない人を助けるとなるとメリットがない。身近にいる人を助けたならば感謝を直接してもらえたり、謝礼を貰えることがあるが、遠くの会った事もないような人を助けるとなると自分がいくらチャリティー活動をしたりお金をかけたって相手からの感謝などがなく言い方が悪いが完全なる自己満足になると思う。僕はこの講演会で他の人の意見も聞き、自分とは考え方が違う人が沢山いると言うことを改めて知りました。そういった人達と意見を話し合い新しい視点を見つけたいです。

僕は遠くの会ったことのない人には助けるべきだと思います。ですが、余裕のある国からすると何のメリットもなく逆にデメリットがあるのに我慢をしてでも助けたいとは思いませんけれど、もし貧しい国の人のだとしたら毎日死にそうな思いをして生きてるので今すぐ助けて欲しいと思います。立場によって意見が違っていますが、やはり貧しい国の人のことを考えると可哀想だと思ってしまうので、余裕のある国はストレスをそこまで感じない程度に助けてあげたほうがいいと思いました。

もし会ったことない遠くの知らない人たちが貧困で困っている場合その人たちを助ける義務があるかについて私は義務はないと思いましたがもし反対の立場になった時は助けてほしいと私は思いました。哲学は助ける義務はないけど反対の立場になったら助けてほしいという矛盾のようなものになるということがわかりました。

今回の講演会でいろんな視点から考えながら聞けて良かったです。貧困の話では、遠くにいる知らない人を助けるかっていう問いには私だったら助けたいなって思いました。なぜなら、自分も貧困だったらやっぱ助けてほしいから同じ気持ちにはなってほしくないから助けると思います。逆に自分が貧困だったらやっぱり助けてほしいです。なぜなら、少しでも楽に過ごしたいからです。今回の講演で分かったことは助け合いも大事なんじゃないかなって私は思いました。

最近心理学や哲学的な事などについてとても興味を持っていて、今回の話でさらに興味を持てました。「いや、ここではこうするはず」と思っても実際自分がその立場にたつと考えが変わるのが人間の本質的な部分なんだなと思いました。私は今卒業論文で寄付などについて書いているのですが、それも踏まえてじっくり考えられる内容でした。

今日の講演会を聞いて僕は遠くの会ったことのない人でも助けるべきだと思いました。助ける側からしたら地球の裏側にいる人たちが飢餓で苦しんでいる事など考えて日々過ごしてないし実感が湧かないけれど、苦しんでいる側からしたらそれが日常なわけで自分たちが貧困ということにも気づいてないと思います。お互いに現状を理解していないため貧困というものが解決しないのだと思います。今日聞いた牛肉の話もそうですが、「もし〜が〜なら」と言う考えは大切で自分が相手の立場になって考えると言う事は大切なのだと知りました。立場の違いもあり想像するのは難しいことかもしれないけれど、僕はこれから出来るだけ想像して行動に移していきたいと思いました。

今までの中で1番深く悩んだり考えたりした講演会でした。自分が助ける側だとしたら…や自分が当事者だったらなど考えはこんなにもひっくり返るのかと自分でも驚きました。また今まで哲学について何度も考えたことはありますが、今回は特に哲学って面白いな、また考えてみたいなと感じる講演会でした。社会問題の解決や改善につながって行くのだなと思ったら少し自分も社会問題について、考えて役に立ちたいと思いました。後半部分の何人かステージに出てきて対話をする場面ではなるほど、こんな考えがあるのか、そういう視点もあるのかと発見が多く聞いていてとてもワクワクしました。後半部分のテーマである助けなければいけないかでは、自分は以前ドラマを見ていた時主人公が自分の目の前で人を殺してしまった人が大怪我をしていた時、あなたを見殺しにすれば、私はあなた達と同じになる、命を差別する者になってしまうというセリフを時、自分もそういう人になりたいと考えていましたが、ステージに上がって話していた2年生が悪いギャングとかの人だったら別に助けなくてもいいと言っていたのが少し引っかかりました。そう思っている人もいるのはわかっているとは思っていましたが、いざその話を聞いていると何故か心がモヤモヤする感じがしました。だけど十人十色の感じ方や考えがあるからこそ今の世の中がどんどん生きやすくなっていると感じました。今回の講演会でいつか哲学や社会問題について深く学んでみたいと気づくことができました。ありがとうございました。

遠くの会ったことない人を助ける義務はないと思いました。私たち自身が助けることによって、必ず自分の何かは減るわけでその後に元の状態に戻れるかわからないからです。例えば、空のコップと水が入ったコップがあり、空のコップに水の入ったコップから水を入れると空だったコップには水が足されますが、水を分けたコップは水が減ります。その後に、また水を注げば元に戻りますがそのまま中の水がなくなってしまったら元のコップの立場は逆転します。その後に助けてもらえる保証もありません。なので義務はないと思います。しかし、余裕が十分にあるならば助けた方がいいと思います。

私はすぐに自分の考えが出せてしまいそうな問題に対して深く考えることがなかったので、最初私は簡潔にまぁ、こんな感じだろうと思っていたのですが、実際は答えがわかりませんでした。物事には深く考えれば考えるほど答えが出せないなと思いました。今回お話を聞いて物事に対する考え方が少し変化したり、他の子の意見を聞き、共感したり新たな考え方を生み出すことができたんじゃないかと思います。また、話の内容も身近にあり得そうなお話だったし、将来起こってしまうようなお話だったので話に興味が持てました。常に答えを探さなくても考えるだけで良いことがあるんだなと思いました。だからこそ、一つ一つの課題に対して深く考えられるようにしたいなと思いました。

貧困が解決する単純な理由があっても、それを解決するための行動する側のことも考えなければならなくて、当然私がこうすればいいんじゃないかと思ったことも、だいたい実行に移せないようなものばかりです。貧困でない人たちが貧困の中にある人たちのことを考え、助けようとすることは、必要だと思います。義務ではないけれど、少なくとも気にかけて、頭の片隅にその人たちのことを置いておくことは必要だと思います。何より大事なのは、性別や家庭環境により教育を受けることができない、そしてその状況が恵まれていないということに気づくことだと思いました。

牛肉のお話のときには、もし日本全体で食べることを禁止されたら日本人の我慢の方が大きすぎるから反対すると思います。そこで私が考えたのは、誰かが誰かのために食べるのを我慢するのではなく、今無駄にしてしまっているものをまずは減らそうよということです。どこかでは食べるものがないから困っている人がいて、他のどこかでは大量の食品ロスが起こっている…。すごく変なことだと思います。食品ロスを減らしていけば、処理にかかるコストも削減することもできるし、燃やすものも少なくなるから環境問題にも貢献できると思うので、もったいないことを減らすことを意識しながら過ごしてみようと考えることができました。そして、助けてほしいときには、なにをやってほしいのか・なにが不足しているのかを具体的に発信してくれたらさらに助けやすくなると思いました。例えば、もし助けて欲しいとだけ言われて、なにが必要なのかわからないまま物を送ったら実はもう十分足りているものだったとき、その送ったものはその製品としての役割も、助ける側の国の気持ちも失われてしまうことがあるかもしれません。だから、このようなことを起こさないためにもなにをして欲しいのかちゃんと伝える必要があると思います。そしてそのとき、助ける側の国たちに『助けなければならない』という義務はなく、後で揉め事を起こさないためにもお互いの了解が揃ってから助け合いをするのが良いと思いました。また、さまざまな国や町がSOSを気軽に出せるような世界になったら、戦争や紛争を減らすことができるのではないかと考えました。

今回の講演は卒業論文のテーマと似ていたのでとても興味深く聞くことができました。答えが出づらい問題を僕達の年代がわかりやすいようにしてくださりありがとうございました。遠くの人を助けるべきなのかについての対策の一つの例として牛肉がありましたが、これについては時間の問題だと思います。なぜならば、一生牛肉を食べずに穀物を提供しても貧困国の改善が見れなければこの状況が一生続くことは貧困をなくす策としては適切ではないと思っています。何年間支援すれば改善されるなど貧困国を支援するだけでなくその国が完全に良くなる策が立てられなければそれは実行する価値はないと思うがそれをする過程はとても大切だと思っている。

今回の道徳講演会では、自分の意見について考える機会がとても多く、壇上で実際にディベートのようにそれぞれの意見を言っているのを聞いて、私も自分の意見をより深く考えることができました。私はこの議題に対し、助けるべきだとは思いますが、義務ではないと思います。また、もし自分達が助けるかを選べる立場だった場合、私は貧困に困っている人達を助けることによって、自分に被害が出るなら、それはただ逆になっただけでまるで意味がないため、自分に被害が出ないくらい少しなら、助けると思います。

講演会のテーマのような質問の答え自分で考えた時、「うーん…」と悩んでしまいました。なぜなら自分が助ける側・助けてもらう側では全く考えが異なってしまい、矛盾が発生してしまったからです。しかし、西山先生が矛盾があってもいいからとりあえず考えを言ってみようとおっしゃっていて、考えるのをやめるよりどんどんテーマについて意見を膨らませていくのが大事だということに気づけました。また、西山先生が最後におっしゃっていたとおり、何かを解決していくには難しく考えすぎず、「もし…だったら」と想像してみるなどとにかく考えることを放棄しないことはとても大事だなと思いました。私も講演会で学んだことを活かしていつかステージで行っていたようなディスカッションに参加できるようになりたいなと思いました。素敵な講演をしてくださりありがとうございました!

この問題について、義務はないけれどもし助けることのできる余裕があるのなら助けてもいいのではないかと思いました。私は困っている人に手を差し伸べると笑顔になってもらうのが好きだし嬉しくて使っていたランドセルは寄付団体を通してアフリカの国に寄付しました。どんな人かわからないのに助けられないという場合もあるかもしれないけれど、このように直接ではなく間接的に助けることも出来るので、お互いが助け合える世の中になればいいです。

後半の討論の2つの議題を自分が考えてみた時、一つ目と二つ目では相対する議題でしたが、意見に一貫性を持つことは難しいなと思いました。世界規模で考えた時の問題をそれぞれの視点で見ることは結論を出す上で重要なことになりますが、最善の策を出すことは本当に難しいことだと思いました。少し立場が変わっただけで、自分の考えがコロコロ変わってしまうのがとても興味深く、面白かったです。私たち人間は、自分のことになるとこうも簡単に考えを変えてしまうんだと驚きました。

何度も何度も思考を繰り返し、ディスカッションを重ねていく政治哲学はとても面白く、自分も周りの人とディスカッションを行ってみたいと感じました。また、自分の身の回りの人だけではなく、海外の人の意見も聞いてみたいと感じました。海外の人は自分たちとはまた違う環境で生きてきていると思うので、それによる考えの違いなど、ディスカッションしてみたいです。

代表して討論していた人たちは殆どが問い1と問い2で綺麗な矛盾を見せてくれました。自分は問い1のどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきなのか?については、どうしても助けたいって思う人が助ければいいと思っていて、自分自身は自分の自由を制限してまで知らないその人の事情や生活内容のために制限はしたくないと思いました。また、問い2ではもし自分が逆の立場だったら(自分がどこか貧しい国の国民でお腹が空いている場合)についてでした。この問題では他の人は助けてもらえるなら助けてもらいたい、助けるべきと答えていました。しかし、自分はもう助けてもらえないと思うと思います。なぜなら、問い1では助けることが好きな人が助ければいいと思いました。つまり、自分が問い2の立場であったとしても、問い1のような考えを持つ人が他の国には沢山いるわけです。つまり、どこか遠くの会ったことない人たちは自分を助けてはくれないと思っておいた方がまだ気持ちは楽だと思いました。今日はこのような哲学について考えることは面白いなと思いました。友達とまた哲学について話してみたいなとも思いました。

答えがない、難しい、周りと違うと叩かれる、と言う理由で難しい問題について深く考えたことがなかったのでとてもいい経験になりました。もしこの立場だったら、逆にあの立場だったら、と様々な視点で考えることが大事だとわかり、これからいろいろな場面で活用していこうと思います。理想と現実のギャップを埋めるためにはやはりお互いについて知ることが大事なのだな、という事にも気づくことが出来ました。

今日の講演会、哲学的会話をみて、物事をはんだんすることの難しさを感じました。今のわたしなら、「会った事がない人をたすけますか?」と聞かれても、助けるという答えには至らないと思います。なぜなら、みたことも会ったこともない人たちを助けるなんて想像がつかないし、そもそも本当に助かっているのかわからないからです。ですが、今日の講演会を通して、物事をいろんな角度からみて、想像して、考えていく事が大切なのだと思いました。もしわたしが生活ができない、ご飯も食べられず飢えている人の立場になったら、普通に生活ができている人たちは助けるべきだと思います。なので、別の角度からものを考える事がいかに大切かという事を今日の講演会で学ぶ事ができました。これからわたしは、一瞬でもいいから相手の立場に寄り添って考え、答えを出せるような人間になりたいと思いました。

「私たちはどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきなのか」と言われると、会ったことがない人たちだし、助けなくても良いのではないかと考えてしまう。でも反対に親や友達などが困っている場合は、きっと私は迷いなく助けるだろう。では、この違いはなんなのか。一度関わったことがあるから、ないからというだけの違いだろうか。多分きっとそうだ。私たち人間の多くはそう思うはずだ。でも、言い方を変えたらどうだろう。「みんなはどこか遠くの会ったことのない私たちを助けるべきだ」と言われたら、私は助けるべきだと答えるだろう。なぜなら、豊かな国の人たちは私たちの貧しく苦しい生活を助ける力を持っているからだ。また、私たちが苦しんでいるならば助けることが義務だと思うからだ。このように立場を変えて自分に問いてみると、意見が正反対になってしまうことがわかった。「もし〜ならどうする」と仮定を用いていくことで色々な立場の意見が求められるかもしれないと思った。

僕にとって初めて哲学的な話をじっくり聞く機会になりました。今までの僕は『理想と現実を把握し、理想を叶えたい場合は現実にどのようなリスクが発生するのか』という過程を経て実行していました。この方法は1つの可能性を追求することができます。それに反し、西山先生の哲学の考え方では『もし〜なら』で繋げ色んな可能性を探ることができて、そういう考え方があるのだと感心しました。

今回、社会哲学の問題がたくさんあり、解決が難しいものが多い事がわかりました。様々な視点から物事を考える事が大切なのだと思いました。私は、「私たちはどこか遠くの会ったことない人たちを助けるべきなのか?」という問題と「豊かな国の人達は、どこか遠くの会ったことない自分たちを助けるべきなのか?」という問題で、義務ではないが助けられるなら助けたいという意見と、できれば助けてほしいが、そこまで助けて欲しいと思わないという答えを出し、矛盾してしまっていました。いろいろな考え方が必要でとても難しい問題なのだと思いました。

実際、富裕層というのは日本国民のうちの2、8%、超富裕層は0,012%ととても限られている。まず一般家庭に他の人を援助をすることは無理だろう。それに日本政府の国民から集めた税金から援助をしている。直接的ではないが支援はしていると思うので、これ以上支援をする必要はないと思う。

頭の中では誰しもは救うべきだと思うけれど、実際その考えがある人でも行動にうつすのは難しいのが現状であり、自分に戻ってくるメリットがない限り人間が助け合えないのが確かにとおもいました。でも、それを改善する為にどうしたらいいのかあまりよくわかりません。私たちが見ているのはテレビやネットニュースなどの目からしか感じ取れない深刻さや現状であり、その知識を知っているとか、聞いたことがあるだけでは、助けることができないので、行動にうつすには一度その国や地域に行ってその現状を目の当たりにする必要があると思いました。

他人のことはどうでもよく感じてしまうのに、自分のことになると「助けてほしい」と思う、人間の心理を垣間見ることができました。富を持った人々は、基本的に自分のことしか考えていません。「家族を養わなければ」や「まずは国のために」など理由をつけて、自分とは違う暮らしをしている人から目を背け続けています。しかし自分がその立場になると「助けてほしい」と感じます。これは生物として正しいことだとは思いますが、誰もが助けてくれるとは限りません。誰でも良いから助けてほしいと思っていても、基本的に手は差し伸べられません。この心理が国家レベルの問題になっていると思うと、偉い人たちもやはり人間なんだなと感じます。「自分のことだとして考える」という視点が広まり、一般人でも何かできること、簡単に支援ができる方法などが徐々にでも浸透していけば良いと思います。

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